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「やっと動きやがったか」
遠方に見える空飛ぶ物体を目を細めて見つめながらそう呟いた少年は、ふん、と鼻を鳴らした。
「よくもこの俺様をこんなに待たせてくれたもんだ」
彼はその地の最果てと呼ばれる場所に立つ木に腰掛けていたが、勢い良くそこから飛び降りるとにやりと口元に笑みを浮かべて。
「おい、砂仙(させん)」
「はい。空志様」
彼――青龍龍王である空志を見守るように側に控えていた、ひょろりと背の高いいかにも力のなさそうな男に声をかける。
「家族が増えるぞ。今すぐに準備しろ――嫁を迎えにいく」
龍の目は未来をも見通す――そう言われるほど、遠目が利くのだ。彼の双眸はしっかりと、預言者の地へと飛び立った暁と萌華の姿を捉えていた。
もう十分待った。あの日、下界へ降りて萌華を奪い損ねて以来。
そして再び、好機は巡ってきた。
「赤龍だけが助かろうなんぞ・・・絶対に許さん」
氷を連想させる青白い顔に歪んだ笑みを浮かべ、低く唸るように呟いた彼の青い瞳には、ただ冷たい炎が燃えていた。
*
ビュービューと風の音が煩くて、私は振り落とされないようにただ暁の背中にしがみついていた。
今まで何度か焔の背中には乗せてもらったけど、ここまでスピードは出ていなかった。もしかして暁も焦ってるんだろうか。
そう言えば赤龍の地を出発してからしばらく経ったけど、風の感じが変わった気がする。っていうか気温が。あそこは年中からりと晴れていて、夏みたいな気候らしい。でも今そこから離れてみると、少し風に重みがあるような、なんとなく肌寒いようなそんな感じ。
私はあの地の方が好きだなぁ・・・。
緊張感のないそんなことを考えながらふと下を見下ろすと、
「うっ・・・」
そこにはぱっくりと大口を開けて獲物を待ち構えているような、果ての見えない底なし沼のような暗闇。私は思わず背筋が凍るのを感じる。
こんなところから落ちたら・・・・一体どこに飛ばされてしまうんだろう。
「どうした」
ぎゅぅ、と暁の背中につかまる力を強めると、異変に気づいた彼がそう尋ねてくる。
「落ちたら恐いなぁと思って!」
風の音に負けないように大声で答えると、彼は微かに鼻を鳴らした。
「心配するな。落としなどしない――絶対に」
「・・・うん」
意外にも強くそう言い切られ、私は小さく頷いた。
一瞬・・・ドキッとした。ビックリした。
「ごめん・・・」
私はこんなにも大事にされてるのに、暁の事を利用しようとしてる。
・・・最低だ。でもだからこそ、この人には全力で報いなきゃいけない。幸せにしてあげなきゃいけない。
あぁ・・・・頑張らなきゃ。
改めて私はそう決意して、顔を上げた。すると、どんどん緑に覆われた地が近づいてきていた。
「あれが・・・預言者の地?」
森がぽっかり浮かんでるみたいであの中がどうなっているのか想像もつかない。
・・・なんかすごく人を寄せ付けない雰囲気が・・・。
「そうだ。ここから先は我らの支配下ではない。くれぐれも粗相のないように」
暁が少しだけ硬い声で言って、それから、と付け足す。
「敵は今が絶好のチャンスだろう。お前はきっと狙われている――俺から離れるな」
「・・・はい」
頷いて、私は睨むように前を見据えた。
だんだん預言者の地が近づいてきて分かったことは、一面緑で覆われていると思った中にぽつりと1つ寂しそうに塔のようなものが建っているということ。そして暁は、どうやらそれを目掛けて飛んでいる。
――あそこにいるのか、私をここに呼び寄せた張本人は。
心臓が、胃が緊張でキュッと締め付けられるような痛みに襲われる。
・・・・いや、ここで弱音を吐くわけにはいかない。
焦りのようなものとともにせりあがって来る溜飲を無理矢理下げて、私は目の前に迫ったものに集中する。
今この瞬間にもあの塔は確実に近づいてくる。
あと100メートル、80メートル、60メートル・・・と、心の中でカウントしていく。あぁどうしよう。心臓が破裂しそうなくらいドクドク言ってる。呼吸が乱れる。
40メートル、20メートル、
・・・・・・・・・・・・0。
バサっ、と塔のてっぺんに着陸した時に暁の翼がばたついた。そのせいで物凄い風が吹いて、思わず私は目を瞑る。
そして、次に目を開けた瞬間。
「ようこそ・・・待っていましたよ」
――思わず、時が止まったかのように。私はただ呆然と、突如目の前に現れた人物を見つめていた。
長い黒髪に、赤い着物のような服装で。日本人形のようだと思った――容姿だけは。
ただ顔だけが、白いベールのような物で隠されていて想像出来ないけれど。
・・・・預言者は女の人だったのかと、私は回らない頭の中で考えた。
「そろそろやって来る頃だと思っていました。初めまして、萌華」
表情がつかめない。だけど柔らかい物腰で預言者はそう言った。突然自分に向けられた言葉にハッと我に返った私とは対照的に、人間バージョンに戻った暁は落ち着いた様子で深々とお辞儀をして、私はあわててそれに続いた。
「突然の訪問、ご無礼をお許し願いたい」
「いいえ。わたくしも退屈していたところです。それに・・・気づいたのでしょう?」
ふ、と。顔は見えないのに、預言者が笑ったような気がした。
――“気づいたのでしょう?”・・・?
どういう意味だろう。やっぱりこの人は、全てを知っているんだ。私たちに何かを隠してるんだ。
・・・洗いざらい、全部話してもらうけど。
「さぁ、顔を上げて。ここでお話をするのはあなた達に失礼ね。ついてらっしゃい」
*
「外に出たいわ」
一方、その頃の赤龍の地では。
退屈そうに魏惟が焔にそうねだる。未だ城内は魏惟が蘇ったという事実に騒然としているので迂闊に外はおろか、部屋からも出すわけにはいかず、焔は思わず渋面を浮かべた。
彼とて本当はこんなところに魏惟を閉じ込めておきたくはないのだ。出来ることなら生き生きと、自分の好きなようにさせてやりたい。
けれど、まだ今はその時ではない。もう少し、あと少し辛抱すればそれは実現するのだ。
「申し訳ありません魏惟様。まだお外には・・・。ですがお部屋の露台(バルコニー)にお出になるぐらいなら」
「それでもいいわ。別の景色を見てみたい」
そう言うと彼女はベッドから起き出し、ゆっくりとそちらに向かって足を進めた。どこかおぼつかない危なげな足取りに、焔はすかさず彼女の肩を支える。
――支えた体の軽さに、肩の骨ばった感触に、胸から熱いものがこみ上げて来た。
こんなにも痩せ細っておられたのか、と。触れて初めてそう実感する。
抱きしめてしまえば今すぐになくなってしまいそうな、そんな危うい姫君。
それでも抱きしめてしまいたい。けれど同時に守りたい。守らなければ。少なくとも今この瞬間は、自分だけがこの姫君を守ることが出来るのだから。
しっかりと魏惟の体を支えながら、心の中で忠誠を誓う。
絶望の淵に立たされたとき、彼女だけが唯一の光だった。いつだって本当は、助けられていたのは自分の方だった。
今度こそ自分は、蘇った光を守りきらなければ――。
「なぁに?あれ」
ふと魏惟が呟いた声で、我に返る。
「どうなされました?」
無表情な顔に問いかけ、その空ろな瞳の視線の先を追う。
「鳥かしら」
「・・・・いえ・・・」
感情のこもらない声に焔は呆然と答える。
遠方に見える、飛行物体。前方を飛んでいるのは恐らく暁だろう。しかしその後を追いかけるようにして飛んでいるのは、
「青龍・・・!」
青い、空に溶け込みそうな肢体をしなやかに操るあれは、確かに青龍だ。
瞬間、萌華が危ないと悟る。絶滅に瀕しているため、種族同士での殺し合いはタブーである。けれど人間よりもはるかに回復能力に優れた龍なのだ。殺しはしないものの、瀕死の状態まで暁を追い詰めて萌華を手に入れようとすることだってあるかもしれない。
勿論暁はこの地の王であり、最も力のあるものだ。そう簡単にやられるはずはない。
――ないと、分かっているけれど。
「萌華っ・・・!」
考えるより先に体が動いた。普段は冷静沈着で通っているのに、今は目の前のものしか見えなかった。
焔はすぐさま駆け出し、龍の姿に変化しようとした――が。
足を踏み出した瞬間、パシっと手を掴まれる。そこでハッと我に返り、今自分が守るべき相手に顔を向ける。
「落ち着きなさい。仮にもお兄様はこの地の王よ。それともあなたはあの時、嘘をついたことをここで悔やむのかしら?」
「魏、維・・・様?」
そこには今までの人形のような魏惟の面影は無く。瞳が輝きを取り戻し、彼女はにこりと悪戯っぽく微笑んで首をかしげる。
――元に、戻られたのか?
「俺が・・・俺が分かりますか!?」
激しいもどかしさを感じて焔は彼女の肩に掴みかかった。壊れてしまうかもしれないという想いと焦燥が入り乱れ、後者が勝った結果だった。
魏惟は焔の言葉を肯定するようににこりと微笑んで話を続ける。
「みんなを騙せても私は騙せないわよ、焔。あの時――次の王様を決める闘いの時――あなたお兄様にわざと負けたでしょう?」
魏惟は手品の仕掛けを見破った時のように、どこか得意げで楽しそうにそう話す。
“ねぇ焔”
声が、記憶が蘇る。
“あなた本当は、嘘ついてるでしょ?”
「・・・・・・はい」
焔はまっすぐに自分へ向けられている目から逃げることが出来ず、ぽつりと答えた。
「やっと白状したわね」
おかしそうに魏惟はくすりと笑って、「一体どれだけ長い間しらを切っていたのかしら?」と言う。そしてふと、切なげに目を細めて。
「あなたは少し優しすぎる。あの時だって本当はあなたが王様になっていたかもしれないのに。実際なれたのに。それでもわざと負けたのは、私のためでしょう?」
すぅ、と彼女の白く小さな手が焔の頬に添えられる。
「あなたは、お兄様が次の王様になると信じて疑わなかった私を失望させたくなかったのでしょう?」
「ちが・・・い、ます。俺はただ・・・自分が人の上に立てるような器ではないと・・・」
「それでも、私たちが生き残っていくためには力のあるものが頂点に立たなければいけないのよ」
魏惟の真摯な言葉に焔は胸を貫かれたような苦しさを覚え、顔を歪めて彼女を見つめる。
「王様になっていれば今頃萌華と共にあったのはあなたなのに」
魏惟はそんな焔にもう1度切なげな笑みを浮かべて、彼の頬から手を離す。
「優しさはあなたの長所よ。けれどそれとともに、短所でもある。
――見極めなさい、あなたの中にあるものを」
「・・・魏惟様っ・・・」
柔らかな魏惟の声がしっかりと芯のある、硬質なものに変わった。瞬間、焔は直感で彼女が離れていくのが分かった。確かに形はここにある。けれど「魏惟」という人間を構成している目に見えない中身が、掴める事も無く消える気がして。
名前を呼んだ時には、もう遅かった。
「・・・なあに?」
目の前には、瞳の輝き、そして感情と記憶を失った魏惟がいた。
「・・・う・・・あ・・・」
なぜ、なぜ。
どうして記憶が――。
混乱する頭の中で考えようとしたが、気持ちがそれを拒否した。彼の目からはただ止め処ない涙が溢れて、焔はがっくりとその場に膝を着く。
「うっ・・あぁぁ・・・!」
守るべき人の前で2度も泣くわけにはいかないと、頭では分かっていたはずなのに。それは堰を切ったように溢れてきて彼は止める方法を知らなかった。
何かを押し流そうとするかのように、魏惟が死んで以来初めて声を上げて泣いた。頭の中には最後の彼女の言葉が何度も何度も木霊する。
見極めなければ。見極めなければ。見極めなければ。
そうして、強くならなくては。
自分の中の何が真実で何が間違いや錯覚かはまだ分からないし、王である暁の力を疑うわけではない。けれど、
萌華が危険にさらされるのは嫌だと。それだけは今ここで言える、紛れもない真実だった。