こんなものを
望んだんじゃない。


Want to...



「わー。お上手ですね」
背後からそんな声が聞こえ、男はゆっくりとそちらに視線を向けた。
「ありがとう」
そして、無表情に答えた。
辺り一面には花が咲き、男は絵の具のついた筆を持っていたスケッチブックに走らせているところだった。
「それ、趣味で描いてるんですか?」
声をかけてきた少年は男のスケッチブックを覗き込んで問い掛けた。
男は「いや」と首を振る。
「仕事なんだ。私は一応画家なんでね」
そう言ってふぅ、と溜息をつく。
その様子を見て少年は再び問い掛けた。
「お疲れですか?」
「あぁ、少し肩が凝ってね。昔はこんな風になったことなんかなかったのに。もう歳かもしれん」
力なく笑いながら、男は目頭を抑えた。どうやら目も少し霞んでいるらしい。
「絵、お上手ですね」
そんな男と彼のスケッチブックを交互に見つめ、再び少年は言う。
「ありが・・・」
「でも」
男が礼を言おうとしたのを遮ったのは少年だ。 そして何故かにっこりと笑いながら言った。
「上手ですけどこの絵、死んでますね」
少年が言った瞬間、男の小さな目が精一杯見開かれた。
「君には・・・私の絵が分かるかね?」
少し間が空いてやはり力なく笑いながら男は言った。
「どうやらここ数年で私は変わってしまったようだ。画家のくせに、絵を描くのが苦痛とはね」
言いながら、クックと喉を鳴らして笑う。
「絵を見ても”上手い”以外に何も感じないし伝わってきませんからね」
微笑みながら、キッパリと少年は言い切る。対して男は困ったように笑うだけ。
少しの間二人とも何も話さず、先に行動を起こしたのは男の方だった。
彼はもっていた筆に少しだけ絵の具を付け、描いていた絵に色を塗り始める。
最初は薄く、けれど何度も何度も重ね塗りをして濃くしていく。
「勿体無いなぁ・・・」
それをジッと見ながら、ポツリと少年が漏らした。
「才能があるのに絵を描くのが苦痛なんてねぇ」
「・・・・」
男はただ無言でもくもくと絵を描き続けている。
男が描いている絵はまるで本物のように正確で、それでいて何か硬さを感じさせるものがあった。
「――・・・こんなものが」
幾分か経った頃、まるで機械のように手を動かしながら男は口を開いた。
ジッと男の絵に目を落としていた少年は彼の顔に視線を移す。
「こんなものが欲しかったんじゃないんだ」
そして男が呟いた言葉に、少年は満足そうに頷く。
「だと思いました」
その言葉にぴくりと反応し、男は手を止める。持っていた筆が力なく地面に落とされた。
「私の絵は・・・そんなに醜いかね?」
男の表情が見事に歪んでいた。
「いいえ。綺麗ですよ」
「では何故・・・・!!」
微笑んだまま言う少年に突っかかる勢いで男は言って、口をつぐんだ。彼は自嘲のような笑みを浮かべて首を振る。
「・・・いや、聞くまでもないか」
そうして今まで描いていた絵を躊躇なくビリっと豪快に破る。
「わぁ、大胆な事しますね」
少年はその様子を楽しそうに見つめて言った。
絵を破った男はふっと笑って
「こんなものに意味はないからね」
と答えた。
「いつからだろうと考えたら簡単に答えなんか出るさ。絵を描くのが苦痛になった理由なんてね」
「念のために聞きますが、いつからですか?」
全て見透かしているような少年に、男は苦笑わらって答えた。
「画家になったときからだよ」
男はただの紙切れになってしまった絵をその場に投げ捨てた。
「私は小さい頃から絵を描くのが好きだった。パッと目に付いた何でもないものから綺麗なものまで。全てこの手で描ける事に快感を感じていた」
少年は男の言葉に頷きながら話を聞く。
「勿論小さい頃の夢は画家だったさ。それが叶ったとき、どんなに嬉しかったか・・・・」
男はそう言って、懐かしそうに目を細めた。けれど不意にその表情が曇る。
「でも私は、画家にならない方が良かったんだ。・・・夢は夢のままで残しておくべきだったんだ」
「何故?」
にっこりと微笑んで少年は問い掛ける。男は溜息をついて続きを話す。
「画家になったということは勿論絵を描くのが仕事になると言う事だ。夢をかなえる前、私はこの仕事が何と素晴らしいものなんだろうと思っていた。だって自分の好きなことを一生やっていけるんだからね」
「ですね。で?」
少年は相槌を打ちつつ、先を促す。
「でも現実はそう甘くなかった。絵を一生描いていけるということは、裏を返せば絵を一生描き続けないと食っていけないと言う事だからね」
男は目頭を抑える。
「私はそれが怖かった。もうすでに家庭もあって子供も生まれて、家族を養っていかなければいけない身だ。そんな私が絵を描くことを放り出せば私の家族はその日から路頭に迷う事になる」
男が抑えた目から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
「ハンカチ、いります?」
「いや・・・結構」
少年が持っていた鞄をあさろうとしたが、男は断って自分のズボンのポケットからそれを取り出した。
それを軽く目に押し当て再び口を開く。
「いつしか私は何かに追われるように絵を描く事になった。怖かったんだ。全てを失う事が。でもまさか・・・・そうしているうちに絵を書くことが苦痛になるなんて思っても見なかったけどね」
「お気の毒様です」
少年が言うと、男は口元を歪めた。
「私は愚かだ。ただ夢に憧れてその本質なんて考えようともしなかった。今だから思うけれど、私は画家になる前、ただがむしゃらに絵を描いていた頃の方が上手く描けた様な気がするんだ・・・・」
――あの頃は自由だったのに。
縛られるものが何もなくて、ただ描きたいものを描いているだけで良かったのに。
ぐっとハンカチを目に押し当てながら男は思う。
「出来るなら今何もかも放り出してあの頃に戻りたいよ・・・・」
呟いた男をジッと見つめ、それまで静かに話を聞いていた少年が口を開いた。
「そんなこと今更言っても無理ですね」
「・・・・分かってるよ、言ってみただけだ」
無感情な少年の声。男は力なくそれに答える。
「貴方は絵を描く事で何を伝えたかったんですか?何を望んだんですか?何を見出したかったんですか?」
急にこんな質問をされ、男は返答に詰まった。
「私は・・・・」
一応そこまで言ってみたものの、後に続く言葉が出てこない。
――あれ・・・?
思わず頭に疑問符が浮かんだ。
――私は何を伝えたかったんだ・・・?
「答えられないんですか?」
少年は呆然とする男にそう問い掛ける。けれどその言葉がまるで耳に入っていないかのように、男は黙っている。
――私は何を見出したかったんだ?
何を望んだんだ?
・・・画家になる事を望んだのか?
「僕、そろそろ行きますね」
何も答えなくなった男に少年は興味なさ気にそう言って、踵を返す。けれどやはりそれが聞こえていないかのように男は呆然としていた。
「・・・違うんだ・・・」
少年の姿がもう遥か彼方へ消えた頃、やっと男は呟いた。
「私が望んだのはこんなものじゃないんだ・・・・」
生気の感じられない瞳からは涙が溢れ出す。
「違うんだ・・・・・」
再び呟いて、男はその場に力なく膝をついた。
――確かにあの頃は画家になる事を望んだ。
でも本当にやりたかった事はこんなものじゃない。こんな、何かに追われるように怯えて絵を描く人生を望んだわけじゃない。
もしあの頃に戻れたら、と男は思った。けれど辿ってきた道はもう引き返せない。人は進んでいくだけの、一方通行の道しか持っていない。
――懐かしい・・・。
嗚咽を漏らしながら男は地に落ちた筆を握り締めた。
――自由に気ままに描き続けたあの頃が懐かしい。
「私が望んだのはこんなものじゃないんだ・・・・」
あの頃本当に伝えたかった事は何だったんだろう。見出したかったものは何なんだろう。ただ絵を描く事が楽しいだけではいけなかったんだろうか。
――望んだものは、何だったんだろうか。



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