あぁ、神よ。
罪深い我らを、どうかお許しください。
に じ い ろ
私は、生まれた。
もう何千年も前の事だ。そのときの事は今でも鮮明に思い出せる。
私の父であり母であり、生みの親は神だった。
あの気高いお人は、自らの骨をもって私を作られた。そうして私に、自分と同じ格好をくださった。
――おはよう。
あの時目覚めた私に、あの方は柔らかく微笑んでそう言われた。
そうして目から何かを零された。私は後に、それが「涙」だということを知る。
神があの時流されたのは、私がその時始めてみた色。
暖かい、薄紅色の涙だった。
「神」
それから少し経ったころ。
驚くほどのスピードで発達した頭で必死に考えても解けない問いを、私はとうとう神に問いかけた。
「私は、どうして生まれてきたのですか」
何のために。
そう付け加えると、あの方は何ともいえない悲しげな、それで居て美しい笑みを浮かべると。
――寂しかったの。
そう一言、ポツリと零された。
――だけど、あなたが生まれてくれたからもう大丈夫。
あの方は誰よりも高貴なお方だ。
そして同時に、誰よりも孤独なお方だ。
「私はずっと、貴方のそばに居ります」
私は誓った。そのときはまだ「死ぬ」という事を知らなかった私は、これから先ずっと。それはもう途方もなく長い間、あの方が望まれるのならいつまでもそばに居ようと。
――ありがとう。
神は私を優しく抱き寄せると、ささやく様にそう言った。
私が2番目に見たのは、光の色。
輝くような、あの方の涙だった。
それからまた少し経ったころ。
私には、唐突にもう一人の仲間が出来た。
私と同じ格好をした二人目の「人間」だ。
私はそれを自分と区別するため、「彼女」と呼ぶ事にした。
彼女は生まれてきたとき、ただ空ろな目をしていた。きっと私も、最初はそうだったのだろう。
けれど神はこの上なく嬉しそうに笑っていった。
――これでまた寂しくなくなった。
私は、あの方が笑っていてくださるならそれで良かった。
けれど時が経つにつれ、私も彼女も急激に脳が発達していった。
神から分け与えられた英知。全てのことを考え、そうして自分で結論を出したり想像したり出来るようになった。
そしてある日、彼女が言った。
「ねぇ」
その時ちょうど私たちは、神のために花冠を作っている最中だった。
「世界って、何だと思う?」
私は彼女の言葉の意味が分からなかった。
「世界?何を言ってるんだ。ここが我らの世界じゃないか」
神が居て彼女が居て。
花が咲き乱れ、暑さも寒さもない。ここはまさに「楽園」だった。
けれど、私の言葉に彼女は首を振る。
「ここじゃなくて、もっと別の・・・・私たち以外の人間が居る世界があるとしたら、あなたはどうする?」
私はそれまで考えたこともなかった事を言われ、思わず目を見開いたまま固まった。
そうしてその時気づく。
同じ姿形をしていても、我らは別の人間なんだと言うことを。
「しかし・・・人間というのは神がつくられるものだ。私たち以外にそんなもの存在するはずがない」
私は強く首を振る。例えほかの世界があっても、私は今のこの場所が好きだった。離れたくなかった。
そして何より、神のそばに居たかった。
「・・・・そう。あなたは興味がないのね」
その時は強くその考えを否定する私に、彼女も渋々うなずいたのだった。
しかし時が経つにつれ、一旦は収まったかと思われた彼女の想像は異常なまでに再び膨らみ始めた。
「ねぇ」
彼女は毎日、神から隠れるように私を誘惑した。
「ここを出てみたら、もっと私たちの仲間が見つかるかもしれないのよ」
最初のうち、私は頑なに彼女の誘いを拒んでいた。寂しいといったあの方を、一人置いていけるはずがないと。
それでも彼女は引かなかった。
「私はもっといろんな事を知りたいの」
まるで彼女はもうすでに別のものが見えているような、そんな熱っぽい表情で語る。
「私は、違う景色が見てみたい」
――引き金となったのはこの言葉。
私たちはとうとう、楽園を出る決意をした。
けれど私は神を裏切り、その上悲しませることが出来なかった。
だからあの方には何も言わずにここを出て行こうと彼女と話し合って、最後にあの方が寂しくないように色とりどりのたくさんの花を花束にしておいてきた。
本当は分かっていたのに。あんなものが我らの身代わりになるはずがないということを。
この時私は始めて涙を流した。けれどそれは透明で、水と何ら変わりのないもの。
そして同時に、想像した。神が涙を流されているところを。
それは自分でも驚くほど細部まで想像することが出来た。
あの方の涙は、きっと深い深い海の色よりもっと深い蒼。
悲しみに駆られた涙の色だ。
――あぁ。
どうか欲深い我らをお許しください。
誰よりも高貴で、同時に誰よりも孤独な貴方を置いて行く我らを。
どうか、お許しください――。
私たちは二人で楽園を抜け出した。深い深い森を抜け、海を超え、そうしてあの夢のような場所からはかけ離れた地に辿り着いた。
そこは正に不毛の地。
辺り一面からからに乾いた地面しか見えず、それ以外は本当に何も無かった。
そこで愚かな私たちは初めて気づく。人間というのは、水がないと生きてはいけないと言うことに。
「あぁ・・・喉が・・・」
喉が、カラカラだ。
今まで経験したことも無い苦しみに、私たちは耐えることが出来なかった。
楽園に居たころ見ていたものが全て夢のように思え、いつも太陽の光を遮ってくれていた木々がとても愛しく思えた。
私たちは今、水も食料も花も木々も何も無いこの地でただ太陽の光に肌を焼かれている。
「苦しい・・・・」
私の隣で彼女はそう言って、とうとうバタりと力尽きて地に伏した。
「お許しを、神・・・・」
そうしてうわ言のようにつぶやく。
私は彼女よりももっと前から、もう何度も神に懺悔していた。
これはきっと、貴方を裏切り己の欲に溺れた我らの罰なのだ――。
けれど神よ。私はまだ死にたくない。今更こんなことを言ったって遅いと分かっているけれど、死ぬなら貴方のそばで。
死ぬ前にもう1度――貴方の笑顔を。
そう、思ったときだった。
ぽたりと、何か冷たいものが腕に落ちる。
私は瞬時にそれを、あの方の涙だと思った。けれど見上げたそこには何も無く、思わず首をかしげる。
「これは・・・?」
冷たいそれに気づいたのだろう彼女も、ぐったりとしていた体を起こして弱々しくそうつぶやくと。
「・・・水だわ・・・!」
まるでそれ自身が神であるように、降ってきたそれを崇める勢いで叫んだ。
「水・・・?」
私は彼女の言葉が信じられず、もう1度そう繰り返して半信半疑で降ってきたものを舐めてみた。
それは確かに、彼女の言うとおり水だった。
「あぁ――!」
最初、ポツポツ程度だったそれはすぐさまザーザーと音を立てて降り出した。私たちはカラカラになった体を潤すように、ただ夢中でそれを飲んだ。
空から水が降ってくるのは何とも不思議だったが、この時私たちはそれを「雨」と名づけた。
そして同時に、これは神からの恵みだということに気づく。
「私は・・・・なんて愚かなことをしてしまったのかしら・・・」
雨でずぶ濡れになって、彼女の流すものが涙なのかどうかは判別できなかったが、彼女は自らの犯した過ちを悔いてその場にがっくりと膝を付く。
私はそれをやり切れない想いで眺めていた。
もう1度あの楽園に戻ることが出来るのなら、それは何と夢のような事なのだろう。
何不自由なく毎日遊んで暮らした日々。あの方のそばに居られた幸せ。
けれどいくらそれを望んでももう遅い。
あの方を裏切った我らは、もう2度とあの方に顔向けできない。
悔やんで悔やんで、どれだけ泣き喚いてもぽっかりと心に空いた穴が塞がることは無かった。
そうしてこの時、ようやく神の仰った感情を理解する。
――寂しい。
貴方を失って、私はどうしよもなく寂しい――。
―――大丈夫よ。
その時不意に、懐かしい声が聞こえた。突然のそれに驚いて大きく目を見開くと、私の隣では彼女も私と同じ表情で硬直していた。
「神・・・・?」
私はポツリとその高貴なお方の名を呼ぶ。
聞き間違えるはずが無い。それは紛れも無く、私たちの生みの親の声だった。
「神・・・!!」
そしてもう1度強くその名を呼ぶ。そうするとそれに応えるように、ふわりと優しい風が雨に混ざって吹きぬけた。
あぁ・・・・。
あの方が、今確かにここにいらっしゃる・・・・。
「申し訳ありません・・・・貴方を裏切り、己の欲に溺れ、我らはどうしよもない愚か者です・・・」
私はすかさずそう謝った。
「どうかお許しを――」
それから、沈黙が流れて。
――あなたたちは、何処へでも好きなところへお行きなさい。
神の凛とした気高い声が、私たちにそう告げた。
私はその言葉を、自分たちが許されなかったのだと受け取った。
「確かに私たちは違う世界が見たいと望みました。しかし今は違う。自分たちがどれほど愚かだったかということに気づきました。だから神よ、どうか貴方の元へ戻ることをお許しください・・・!」
私は必死でそう哀願した。地にひれ伏して、叩頭して。あの方が望まれるのなら、もう何でもする覚悟は出来ていた。
・・・けれど。
――あなたたちは間違ってなどいないわ。
神は私たちの行いを是だと言う。何の迷いも無い声で。
――これからあなた達が世界を作るの。私に出来ることは、それを見守ることだけ。
私は驚いた。
私が生まれたとき、世界と言うのはもう目の前に広がっていたのだ。だから彼女が言うように、楽園を抜け出せばもっと違う世界が見られると思ったのに。
私たちが、世界を作る――?
――さようなら、どうか元気で。
言葉の意味が理解できないでいる私たちに、神はこれで最後だと言うように告げた。
それと同時に雨が急に弱まり、また太陽が姿を現す。
完全に雨が上がったとき、呆然と空を見上げた私の目に飛び込んできたのはそれまで見たことのないものだった。
「あれは何だ・・・・?」
私は彼女に、その神秘的なものを示す。
それは空にかかった「橋」のようだった。弧を描いてそこに浮かぶのは見覚えのある七つの色。
これは――
これは、神の涙の色だ。
「あぁ・・・・」
その瞬間に、私の目からは思わず涙が溢れ出した。理由は分からないけれど、その色を見た瞬間に何故か自分たちが許されたような気がして。
その「橋」の向こう側に、神の笑顔を見たような気がして。
私たちはこの日、その橋に「虹」という名前をつけた。
私は今、世界を作っている。
彼女と、彼女の間に生まれた子供たちとともに。
不毛だったこの地は、今では見違えるほど緑が増えた。生きるために必要な食料も水も、ちゃんとここで育っている。
残念ながらあれ以来、神にお会いすることは出来ないのだが――。
「父さん、見て!虹が出てるよ!」
まだ小さな息子が顔を輝かせ、必死で空を指差した。私はその先にあるものを思わず目を細めて見つめる。
「あぁ、本当だ」
私は、知っている。
目には見えなくても、今もあの方が我らと共におられることを。
そして、虹を見ると思い出す。
あの方が流された涙と、七色の笑顔を。
...END