「付き合おうよ」
 それは確か、もう3年も前の言葉。
「いいよ」
 あたしは彼のその言葉をずっと待っていて、即答したのを覚えてる。
 あの頃は好きだって気持ちしかなくて、そう思える相手と気持ちが通じたのが嬉しくて仕方なかった。
 今こんな事いったら君は笑うかもしれないけれど。
 多分その頃のあたしは、君しか見えてなかったんだ。


Little Step



 人の気持ちは変わっていくものだと知ったのは本当につい最近。
 気づいた時にあたしは思った。
 自分は随分長い間、夢を見ていたのだと。

「ねぇ、あれ純君じゃない?」
 下校中、他愛ない話をしながら歩いていると不意に隣を歩いていた友達が足を止める。
「え?」
 指をさされた方向を見ると、確かにそこには自分の彼氏の姿があった。
 そしてその隣には、楽しそうに笑いながら歩く女の子の姿。
 ――知ってる、あの子。
 確かうちの隣のクラスの子だ。
「純君・・・・・だよね?」
「・・・うん」
 確かめるようにもう1度言った友達に静かに頷いた時、あたしは気づいた。
 自分の中で、おかしな感情が生まれた事に。
「・・・・・・ごめん!私もしかして余計な事言った?」
 しばらく無言で前方の二人の姿を見つめていると、勘違いしたらしい友達はそう言って気まずそうに謝る。
「ううん、別に大丈夫」
 あたしはすぐさま否定して、友達に笑って見せた。
 でも本当は、今すぐにでも泣き出してしまいたかった。
 ――ねぇ純。
 嫉妬っていうのは、どんな感情だったっけ?
 何だか、あたしの中にあるのは嫉妬なんかじゃない気がするんだ。何かとても寒々しくて、凄く泣きたくなるようなものの気がする。
 これは多分――虚無感だと思うんだけど。
 こういう時って普通、怒りとか嫉妬とかドス黒い感情が出てくるもんじゃないの?
「あたし・・・・・どうしたんだろう」
 ぽつりと呟いた時、本当はもう自分の中で答えは出ていた。
 夢を見ていたんだ。いつからかは分からないけれど、長い長い夢を。
 君が好きなんだと思い込んでいた、幸せな夢を。
 あたしはこの時初めて夢から覚めたよ。

 人の気持ちってきっと、いつかは自然に変わってしまうもの。
 思い続けるのは簡単じゃないって事を、この時知った。
 でもあたしは、自分がとても冷めた人間に思えて。
 今まで信じてきたものが全て崩れていくような気がして。
 虚無感と喪失感が入り混じって、今すぐにでも泣き出したかった。

 

「ねぇ、沙希は卒業したらどうするの?」
 あの日から少し経った頃の昼休み。
 あたしは友達と一緒に、教室で進路について話をしていた。
 高校3年生と言う事で、もうみんな自分の進路について真剣に考え始めている。
「専門学校?それとも大学?」
 あたしの周りも進路には敏感になってきているみたいで、最近はよくこんなことを聞かれる。
「あたしは専門学校行く・・・かな」
「そっかぁ・・・。あたしはどうなるんだろうなぁ・・・・」
「まだ時間はあるし焦らなくてもいいと思うよ」
 隣で重い溜息をついた友達をなだめた時、「沙希」と誰かがあたしの名前を呼んだ。
 声のした方を振り返ると、そこには純の姿がある。
 自分で少し驚いた。
 3年も付き合ってる彼氏の声が分からないなんて。
 隣に居た友達の体が、気まずさで少し強張ったのが分かったけれど、
「何?どうしたの」
 あたしはいつもと変わらず純にそう問い掛ける。
「帰り、ちょっと話しあるんだけど」
 すると、純はどこか固い表情でそう言った。
 ――予感がした。
 当然のように切り出されるであろう話の予感が。
 でもそれが、嫌なものだと思えなくなっている。
 あたしは確実に、夢から覚めてしまっている。
「ん。分かった。じゃぁいつものとこでね」
「あぁ」
 軽く笑みを浮かべながらそう言うと、純の強張った表情が少しだけ緩んだ気がした。
 そうして彼は教室から出て行く。
「沙希・・・」
 純が出て行ってから、すぐさま友達がおずおずと口を開く。
 言いたい事は分かってるよ。
 大丈夫?とか、聞くつもりなんでしょ?
「あたしは、大丈夫だよ」
 だから、先を読んで答えてあげる。
「沙希が・・・・そう言うなら・・・」
 友達はそう答えたあたしを何処か悲しそうな目で見て。でももうそれ以上何も言わなかった。
 ――もしかして惨めだと思ってる?
 彼氏の浮気現場を見て、これからフラれに行く事を気づいてないみたいに振舞うあたしが、内心では悲しくて寂しくて仕方ないんだろうとか思ってる?
 まぁ・・・・普通はそう思うよね。
 でもあたし、変なんだ。
 純があたしから離れていく事、悲しくも怖くもないよ。
 長い長い夢から覚めた瞬間、急速に現実が見え始めた。
 自分の気持ちはもうここにはない。
 好きなんだと勘違いしてしまう執着心すらも、もう残ってない。
 ただ――心から好きだと思えたあの日の想いだけは、綺麗にとっておきたいよ。

 それから特に憂鬱でもなんでもない時間が過ぎて、純との約束の時がやって来た。
 いつもの場所、というのはあたしたちが付き合い始めた頃から良く待ち合わせをしていた場所。
 綺麗な思い出だけが残っている場所。
「沙希」
 待ち合わせ場所に行くと、もう純はそこにいた。
「遅れてごめん」
「いいよ、別に」
 あたしが謝ると、純はいつもの笑顔でそう言った。
 少しだけホッとして、少しだけ哀しくなった。
「あのさ・・・・・沙希は、卒業したらどうすんの?」
 そうして純と肩を並べて歩く帰り道、今日で2度目の質問をされた。
「専門学校行くよ」
 特に躊躇もせずに言うと「そっか」と純は頷く。
「そっちはどうするの?」
「俺は・・・・・大学かな」
 行けるかどうか微妙だけど。
 そう言いながら純は苦笑する。けれどふと真顔になって、
「・・・・・でさ、俺思ったんだけど・・・・・・」

 あぁ・・・・・
 ”予感”が――。

 純が何処か重たそうに感じられる口を開いた時、あたしの中でそれは確信へと近づいた。
「進路も違うし高校卒業したら離れ離れになるし・・・・だからその・・・・」
 いいよ、そんな遠まわしに言わなくても。
 ジッと押し黙って、純の言葉を待ちながらそんな事を思う。
 すると、ついに純は決心したように、
「別れて欲しいんだ」
 予感はまさに的中した。
 あたしは特に驚くでもなく、その言葉を受け止める。
 そうして少ししてから、どうして自分から先に言わなかったんだろうと気づく。
 いつだってそれを言うチャンスはあった。夢から覚めたその時から、いくらでもあったのに。
 純が切り出してくれないと、あたしこのままズルズル付き合い続けてたかもしれない。
「ねぇ純」
 あたしは足をとめて、静かに彼の名前を呼ぶ。そして、何処か哀しげに口を引き結ぶ純に微笑みかけて。
「それ、理由になってないよ」
 ――別に、困らせたかったわけじゃない。
 悲しい女の最後の悪あがきでも何でもない。

「本当はもう、あたしのことなんて好きじゃないんでしょ?」

 ただ、あたしが傷つく要素なんてもう無いって事を知って欲しかった。
「そんな事――」
 案の定純は、あたしを傷つけまいと否定するために口を開く。でもそれを遮るのはあたし。
「あたしは純の事、もう好きじゃなくなってる」
 瞬間、目の前の彼の目が大きく開かれる。
 でもそれも少しの間で、純はすぐに悲しげな笑みを浮かべて、
「・・・・ごめん、沙希の言うとおりかもしれない」
「でしょ?」
 あたし達は、二人して夢を見ていた。
 それはとても幸せな夢。
 そして先に夢から覚めたのは、純の方。

 人の気持ちっていつか変わってしまうもの。

「ねぇ、別れる前に1つだけ聞いていい?」
 あたしは自分より背の高い純を見上げて問い掛ける。
「何?」
 純は柔らかくあたしにそう聞き返す。きっと、もうあたしに隠す事や負い目がなくなって安心したからだと思うんだけど。
 でもこの顔は、確かにあたしが好きだった彼の顔。
「あたし達、お互い好きだと思えたのは本当だったんだよね?」
 あたしが聞くと、純は一瞬驚いたように――でもそれからすぐに、はにかむように笑いながら。
「勿論。俺は確かに沙希が好きだったよ。1番好きだった。・・・そっちは?」
 何処か不安げに訊ねる純に、あたしは最後にとびっきりの笑顔を向けて、
「あたしは今でも純の笑顔とか、好きだと思えるよ」
 ただ、恋愛感情はないんだけど。
 好きだと思えて良かったって、そう思えるんだ。
 夢から覚めた事は間違いなんかじゃなかったよ。

 人の気持ちはいつか変わってしまうものなんだと思う。
 思い続けるのは簡単な事じゃない。
 でもそれでも、好きだと思えて良かったと思える人が居るのなら。
 あたしはもう、それだけで満足。

「ねぇ、この前隣のクラスの子と歩いてたでしょ?」
「あー・・・見てた?」
「思いっきりね。・・・これから頑張ってね」
「サンキュ。沙希も頑張れよ。・・・・・じゃぁな」
 そうしてあたし達は、笑って別れを告げる。
 悲しいとは思えない。むしろなんだか清々する。

 あたし達は次に進むために、
 ただ小さなステップを踏んだだけ。

...END

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