...20

 頭が重かった。
 サウナの中にいるみたいに、体中が火照って熱い。全身から水分が抜けてしまったようで、喉がカラカラだった。そのくせとてつもない不快感を覚えて無意識に額に手を伸ばしてみると、何か冷たいものに触れた。
 ――汗か。
 朦朧とする意識の中でかろうじてそれだけ確認して、私はまたぐったりと腕を下ろす。
 目を閉じているのに視界がぐるぐると回っているような感覚に襲われる。刹那、とてつもない吐き気を催してうめき声を上げながら私は口を手でふさいだ。
 萌華、と。誰かが遠くで自分の名前を呼んだような気がして。それからそっと、誰かが優しく背中をさすってくれた。その瞬間今まで忘れていたものが込みあがってきて、思わず涙が零れ落ちる。
「おか・・・さ・・・」
 上手く声が出なかったけれど、私は確かにその人の名前を呼んだ。それは紛れもなく、小さいころからよく熱を出していた私に付きっきりで看病してくれた母の手だった。そんなわけあるはずがないと頭の片隅で分っているはずなのに、何故か絶対的な確信が自分の中にある。
 目を開けて確かめようとしたけれど、力が入らなくてそれさえ出来なかった。ただ、背中をさすってもらったおかげで気分は格段に良くなって、そのせいかどっと睡魔が押し寄せてくる。
 抵抗することが出来なくておとなしくそれに従うと、意識はだんだんと遠のいていって。
 背中をさすってくれた手の主が母だとしてもそうでなくても、私に絶大な安心感を与えてくれるのは同じだと最後に結論付けて、私は引きずり込まれるように深い深い眠りにつく。



「・・・・眠った?」
 そう声をかけられ、焔は萌華の背中をさすっていた手を止めて軽く頷いた。
「よほどご無理をなされたようだ・・・熱が高い」
 彼は心配そうに、けれど半分心ここにあらずといった様子の妹にそう告げるとぐっしょりと汗でぬれている萌華の額をそっと布巾で拭ってやった。
「力を一気に使ったから、まだ体が追いつかなかったのよ」
 風紫は少し非難するようにそう言うと、苦しげな表情で眠る萌華を何とも言えない想いで見つめる。彼女が非難したのは急なことを言い出した暁であり焔であり――そして、期待だけを萌華に押し付けた自分や民だった。
 萌華が倒れたと聞いて、そして苦しげな呼吸を繰り返すまま部屋に運び込まれて。その姿を見たとき思わず申し訳なさで胸を締め付けられたが、それでも魏惟の方がどうなったのか心配で仕方ない自分にとてつもない嫌悪を覚えた。
 彼女に謝る資格は自分にはないのだと、風紫はそう思った。

「・・・魏惟様が気になるか」
 そんな時不意に、兄から投げかけられる質問。思わず風紫は勢い良く顔を上げ、焔の目をじっと見つめる。
 魏惟を生き返らせるために力を使って萌華が倒れたというのは聞いたが、それで魏惟がどうなったのかと言う事はまだ聞いていない。萌華の看病でバタバタとしていてとてもそんな暇はなかったのだ。
「あの子は・・・・生き返ったの・・・?」
 本当は萌華が運び込まれてきたときからずっとこの答えが気になっていた。自分の想いを抑えきれず、風紫は単刀直入にそう尋ねる。
 すると焔は風紫から目をそらし、やり切れない表情でぐっと唇を噛む。
「結論から言うと・・・答えは是だ」
「じゃぁ・・・・っ!」
「しかし、」
 と、歓喜に目を輝かせた風紫を制するように焔は素早く付け加える。

「魏惟様は、記憶を失っていらっしゃる」

 ――それは、誰もを天から地へ突き落とす変えようのない事実。
 風紫は焔の口から発せられたその言葉が理解できず、あんぐりとだらしなく口を開けたまま数秒固まって。
「・・・・うそ・・・」
 やっとの事で言葉の意味を受け止めると、ただ一言搾り出すようにそう言った。
「嘘じゃない。あの方は兄である暁様や、ご自分の名前すら覚えていらっしゃらなかったんだ」
「そんな・・・っ・・・・」
 ただ淡々と焔の口から発せられる残酷な言葉は、それまで風紫が想像して期待してきたものとはあまりにも掛け離れているものだった。
 彼女が――萌華さえ居れば。魏惟を生き返らせることが出来て、すべて上手く行くはずだったのに。自分がたった一人、自分よりも大切だと思える相手を救い出せるはずだったのに。

 これは、あまりにも予想外の展開だ。

「嘘よ・・・魏惟が私のことを忘れるはずないわっ!!絶対あの子は私を覚えてる!!」
 今自分の前にある全てのものが見えなくなった。風紫は我を忘れてそう叫ぶ。
 わけが分からない。蘇生は成功したのではないのか。なぜ記憶だけがすっぽりと抜け落ちているのか。

 自分が彼女と刻んできた何百という年数は、全て振り出しに戻されてしまったのか――。

「嫌ぁっ!!」
 どうして。どうして。どうして。
 何故魏惟ばかりが、こんな目にあわなければいけないのだろう。
「風紫っ!!」
 風紫は自分を引き止める兄の声をも無視して部屋を飛び出した。
 確かめなくては。この目で魏惟の状態を。彼女が自分を忘れるなんて有り得ない話なのだから。

『ねぇ、名前何ていうの?』
 声が、聞こえる。
 それは、今でもつい最近の事のように思い出される遠い記憶。
『・・・風紫』
『かざし?いい名前ね。私は魏惟。私のお兄様はね、王様になるんだって。だからもしそうなったら、風紫をお城に呼んであげる。そしたらみんなで一緒に暮らしましょう』
 小さいころ、初めて魏惟と出会ったとき。全てがボロボロに崩れ落ちてしまった廃墟で兄の帰りを待ち、心細さにうずくまって泣いていた自分の手を取った、にっこりと笑う何の曇りもない笑顔。

『だから、もう寂しくないのよ』

 ――そのころは、暁が王になる保障なんてまだ何処にもなくて。
 彼ら同様戦いで両親を亡くした風紫と焔は、街の姿を失った廃墟でただ行く当てもなく途方にくれていた。
 明日はどうなるか分からない、そんな状態で。魏惟のその言葉が、風紫には絶対的なものでありたった1つの希望だった。
 光を、見た気がした。
 あの日、どん底から自分を引き上げてくれたのはたった一人――魏惟だけだったのだ。

「何でっ・・・」
 長いお城の廊下を精一杯走りながら、風紫は誰も答えることの出来ない問題を口にする。
「何で魏惟なのよぉっ・・・・!!」
 涙でぐしゃぐしゃになって、目の前はもうほとんど見えなかった。

*


「ん・・っ・・」
 深い深いところから引き上げられるような感覚。唐突に意識がハッキリしてきて、私はうめき声を上げた。全身が痛い。少し体を動かすのさえ困難だった。
「萌華?」
 と、突然聞きなれた声が降ってくる。ゆっくりと目を開けると、あまりの眩しさにまたそれを閉じる羽目になった。
「お気づきになられましたか!?」
 そうすると、さっきの声がまた上のほうから降ってきて。
「・・・焔・・・?」
 私はゆっくりともう1度目を開けながら、自分を覗き込むようにしている彼の姿を確認した。
「良かった・・・・やっとお目覚めになられた・・・!」
 わけが分からずに居る私を余所に、焔は安心したようにそう言って笑った。
「あれ・・・私――」
 そこで私は思い出す。自分が魏惟さんを生き返らせようとして、力尽きて倒れたことを。
「丸4日と少し眠り続けておられたので心配しておりましたが、お体の具合はいかがですか?」
「・・・4日!?」
 私は焔が言ったその数字が信じられず、思わずそう叫んで起き上がろうとした。でもやっぱり体に力が入らなくてそれは失敗に終わる。
「・・・力入んない・・・」
 ぼそりとそう答えると、それは仕方ありませんよ、と焔は苦笑して答える。
「あれだけ大きな力を急に使われたんですから、完全に体が元に戻るまではまだまだ――」
「あ!!」
 と、そこで私は思いっきり焔の言葉を遮って。
「ねぇ・・・魏惟さん!!魏惟さんはどうなったの!?」
 本当なら目覚めて1番に聞かなければいけなかったそれを、急に湧き上がってきた焦燥を抑えることもせずに噛み付くように尋ねた。
 だけどその瞬間、焔の表情がふと固まって。
「・・・焔、全部話して」
 言葉にしなくても分かる。やっぱり彼女に何かあったんだ。
 私は――失敗したんだ。

「魏惟様は・・・・」
 焔は曇った表情でそう切り出し、渋るように間をおいて。
「記憶を失っていらっしゃるのです」
 そう悲しげに一言告げた。
 ――あぁ、やっぱり。
 心のどこかで冷静に納得する自分が居た。本当は焔に聞かなくても分かっていたのかもしれない。あの透き通るような綺麗な声で魏惟さんが発した言葉を聞いたときから、本当は彼女が記憶を失っていることに私は気づいていた。気づいてはいたけれど、認めたくなかった。だから私は、4日間もズルズルと眠り続けていたのかもしれない。

「ごめんなさい・・・・」
 謝って許してもらえるようなことじゃないって分かってる。もう取り返しはつかないって。
 だけど、形だけでもそうしておかないと結局自分がただの役立たずのように思えてきて居たたまれなかった。
 勝手にこんな世界に連れてきて、力の特訓をさせたり期待したりした人たちが悪いんだ。そうやって、全てを人のせいにしてしまえればきっと物凄く楽なのに。
 だけどその期待に応えたいと思ったのは他の誰でもない自分だったから、開き直るなんて事出来なかった。
 焔は、これ以上ないほど悲しげな表情で私を見ると。
「貴方は悪くない。むしろいろいろな事を急かしてしまった俺たちのせいでこんな事に――・・・・申し訳ありません」
 そう言うと深々と私に頭を下げる。
「ううん、焔は謝らないで」
 私はそんな彼にそう言って、頭を上げるように促した。

 結局誰がなんと言って私を庇ってくれたって、大多数の人の目に映るのはみんなの期待を裏切った私の姿で。きっと私は、もうみんなから必要とされてないんだ。
 帰りたい。どうせこんな、元の世界と同じような境遇に陥るならまだお母さんやお父さんの居る、何の変哲もない日常を繰り返すだけのあの世界へ。

 ――・・・でも。

「・・・焔、魏惟さん今何処に居るの?」
 私は瞬時に気持ちを切り替えると、はぐらかされないようにしっかり彼の双眸を見据えてそう尋ねる。
「何を・・・なされるおつもりですか」
「いいから、教えて。それから暁にも会わせて」
 強張った声で言う焔の質問には答えず、私は強い口調でそう返す。

 事を起こしてしまったのが自分なら、せめて片をつけるのも自分で。
 このとき私は、もうすでに自分の心にそう決めていた。
 多分それが、たった1つのこの地の人たちへの償いだから。         


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