...21

 つかつかと、二人分の足音が静かな廊下に響き渡る。張り詰めたような空気の中、明らかに焦燥の感じられるその音が更に私を追い詰める。
 早く、魏惟さんのもとへ。
 焔に彼女の部屋まで案内してもらいながら私はずっとそればかり考えていた。けれど、4日も眠って体が訛っているせいなのか、思うように速く歩けない。頭もまだぼぉっとして、おまけに全身がけだるい。
「萌華、大丈夫ですか」
 重なっていた2つの足音が徐々にずれ始めたとき、前を歩いていた焔が不意に足を止め、心配そうな顔でこちらを振り返った。私は何も言わずにただ曖昧な笑みを浮かべる。何か喋ると、息切れしている事がバレそうで嫌だった。そうなったら優しい焔は必ず私を気遣うだろうから。
 だけど今回は焔も早く魏惟さんのもとへ向かいたいようで、申し訳なさそうな躊躇うような複雑な表情で数秒の間私を見つめると、思い切ったようにまた前を向いて足を進めた。今度は少し、歩調を緩めて。
 ありがとう、と小さく口の中で呟いて。そうして私も置いていかれないように一生懸命焔について行く。
 けれどそんな時、ふとある疑問が浮かび上がってきた。

 ――・・・私は。
 私は直接魏惟さんに会って――記憶を失って何も分からない彼女に会って、何を話せば良い?

 さっきまでは、とにかく魏惟さんの詳細を確かめて謝ろうと思ってた。だけど、謝るって何を?失敗してごめんなさいって?
 ・・・なんかそれって、魏惟さんをモノみたいに扱ってるみたいで最低だ。
 そもそもこれは謝ってすむことじゃない。それに、風紫や暁からはきっともう私なんて見放されてるかもしれない。それどころか絶対顔も見たくないよね。
 私は・・・大変な事をしでかしてしまったんだから。

 そう思うと、今度は言いようのない恐怖が込み上げてくる。
 嫌われたくなくて。捨てられなくて。
 そうやっていつも馬鹿みたいに自分を押し隠して人に這いつくばって生きてきた自分が窮地に立たされているような、そんな感じ。こんなの元居た世界では慣れっこだったはずなのに、どうして今になってこうなるんだろう。
 弱く・・・・なってしまったのかもしれない。
 ここに来て、みんなに守られて。そうやって大事にされてるうちにそれが当たり前だと感じていたのかもしれない。全く本当に、馬鹿だなぁ・・・私は。
 今だって、ほら。
 こんなに近くに、手を伸ばせば触れられる距離に居るのに。いつか突然焔が私から離れていってしまうかもしれない。そもそも彼がずっと私に付いていてくれる理由も何もないわけで。


 いつかこの手が、届かなくなる日が来るのなら。


「・・・・・萌華?」
 思わず伸ばした手が、無意識のうちに焔の服を掴んだ。焦りの表情の中に怪訝の色を浮かべてこちらを振り返った焔に、自分でも気づかないうちに言葉を発していて。
「・・・怖い、よ・・・」
 震えた声で紡いだ言葉が耳に届くと、すぐさま焔の顔に笑みが宿る。
 こうやって、私を安心させるためにいつも微笑むんだ。
 それも、泣きたくなるような悲しくて柔らかい、全てを包み込んでくれるような微笑み。
「何で・・・こうなるの・・・」
 そんな笑みを向けられると悲しくて甘えたくて、どうしよもない想いが一気に溢れ出して涙が止まらなくなった。小さい子供がお母さんを引きとめようと駄々をこねている姿にまるでそっくりなその光景。
 泣きじゃくる私を見ながら焔は少しだけ困ったように笑って、それから包み込むように私の手を取ると。

「貴方の恐怖は、きっと俺には計り知れない。だけど、だから貴方は今事を起こそうとなさっているんでしょう?」

 ――ハッとした。
 急に視界が開けたような、そんな感じ。
「急ぎましょう、魏惟様のもとへ」
「・・・うん」
 今さっき、自分で片をつけようと決めたばかりなのに。それなのにこんなにも心はもろくて決意は揺らいでしまう。
 だけど、私はこんなところで立ち止まっている場合じゃないんだ。
「ありがとう、焔」
 今度はしっかりとそう言葉にして、涙を拭う。そうして私達はまた、止めていた足を前へ進める。

*


――「この先に、魏惟様はいらっしゃいます」

 そうしてやって来たのは、以前1度迷い込んだ事のある薄暗い廊下に面している重苦しい、人を寄せ付けないオーラの感じられる扉の前。
 暁が今まで決して誰も近づけなかった場所――魏惟さんの部屋の扉の前だった。

 焔が合図のように私に無言で目を向ける。それに答えるように軽く頷いて、私は心を落ち着かせるためにすぅ、と息を吸い込む。

 この扉を開けると、もう後戻りは出来ない。
 この扉を開けると、嫌でも現実と向き合わなければいけない。
 この扉を開けると――・・・・今周りに居る大切な人を、失うかもしれない。

 だけどそれでも、私にはやらなければいけない事があるから。

 ゆっくりと腕を持ち上げて部屋の扉をノックする。くぐもったようなノックの音が廊下に鈍く木霊した。――嫌な音。
 そんな事を思っていると、
「入れ」
 低く短い暁の声が聞こえてきた。一瞬ドクリ、と大きく心臓が跳ねる。けれどここまで来て尻込みをしているわけにもいかないので、私は思い切って扉に手をかけた。


「――萌華」


 予想外だとでも言うような暁の驚きの声が聞こえた。けれどそれは、ただ私の耳から耳へと抜けていくだけで。
 扉の向こうに待っていたのは、暁と全く同じ透き通るような真紅の瞳。
 2つの紅が、空ろな色を混ぜて私をジッと見つめていた。

「魏惟、さん・・・・」

 蛇に睨まれた蛙、という表現はおかしいかもしれないけれど。
 私の体は本当に石のように、そこから動かなくなってしまった。         


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