...25

『焔、えーんっ』
 そう自分の名を呼びながら、惜しげもなくキラキラと輝く美しい笑顔をこの少女が向けたのは何年前だっただろうか。
 守を任され魏惟の部屋に残された焔は、ぼんやりとそんな事を考えていた。今目の前にいる彼女はあの頃とは丸っきり別人だ。
「え、ん」
 と、不意に名を呼ばれた。驚いて顔を上げると、ガラス玉のようなただ赤い瞳がこちらをじぃっと見つめている。
「・・・どうされました?」
 少し、声が上ずった。長い間魏惟と会話していなかったせいだろう。平常を装おうとしたがそれは難しかった。心臓がぎくしゃくと不規則に高鳴る。
『約束よ。誰よりも近い場所で私を守って』
 ふと蘇る過去の魏惟の声。
 あぁ、そうだ。自分はあんなにも長い間この方にお仕えしていたというのに。守ると約束したのに――。

「何で、泣いてるの?」
「え――?」

 突如言われた言葉が理解できず、おもむろに自分の頬に手をやる。するとそこには確かに涙が伝っていた。知らないうちに泣いていたのだ。しかも、守らなければならない主の前で。
「!申し訳ありませ――」
 自分に自分で驚きつつ、慌ててその涙をぬぐおうとした瞬間、焔の動きはぴたりと止まった。
 急に、魏惟の手が彼の頬に触れた。
「・・・どうしてみんな泣いてばかりなのかしら」
 無感情な声と表情。けれど確かに、触れた手は温かくて。
 あの時確かに守ると約束した。誰よりも近い場所で。それなのにその約束を果たすことが出来なかった自分。
 一体どれほどの間、冷たくなった彼女を見続けてきたのだろう。何も出来ず、どれだけ無力な自分に苦しめられてきたのだろう。
 けれど今やっと、もう1度温かい彼女に触れることが出来たのだ。この時をどんなに待ちわびていたか。確かに今、魏惟は彼の前に存在しているのだ。
 そう思うと余計に泣けて、焔は魏惟にその顔を見せまいと俯いた。
 今度こそ必ず、守ってみせる。誰よりも近い場所で、命をかけて。
 ――けれど、そう思った瞬間、

『ヤダぁっ・・・』

 まだこの世界に来たばかりの頃、元の世界に戻れないと知って泣きじゃくった萌華の姿が焔の脳裏をよぎった。
「・・・・っ・・・」
 思い出した瞬間、焔はキツく自分の唇をかみ締める。
『この世界では、俺が貴方を守りますから。絶対に傷つけたりしませんから』
 自分は確かに、萌華にそう誓った。あれは慰めの言葉でも何でもない、本心からそう思ったのだ。
 考えてみると彼女こそこの世界でたった独り。頼れるものは居るものの、その孤独は自分たちには計り知れないだろう。
 ――あぁ、そうか。だからあの時、彼女はあんなにも怯えた目でこちらを見つめていたのか。
 守が自分から外されると聞いたときの萌華の表情が鮮明に思い出された。
 それなのに、自分は。

「・・・・お許しください・・・・」

 小さく呟かれた言葉は、一体魏惟と萌華、どちらに対してのものだったのだろう。

*


「姫様が蘇られたのは本当なの?」
「えぇ、何でも以前王が葬られたのは人形で、魏惟様はずっとこの城内にいらしたとか・・・・」
「まぁ!では伝染病は?どうなったの?」
「分からないわ。王のお話によれば大丈夫だそうだけれど・・・。でも魏惟様は記憶喪失で何も覚えていらっしゃらないとか」
「そんな。どういうことなの?」
「そんなの私に聞かないで!けれどきっと、あのお方のお力が――・・・で、・・・だったからよ」

 城内を歩いていると、ヒソヒソとそんな声が聞こえてきた。
 暁が魏惟さんの事を告白したのは3日前。未だ城の中は騒然としていて、彼女の話題で持ちきりだ。伝染病の事を怖がる臣下を宥めて説得するのに暁や風紫は大忙し。魏惟さんと焔は、相変わらず部屋の中に閉じ込められていた。
 私は廊下の角を曲がりかけて、思わずその足を止める。見ると、曲がり角の向こうに女中が二人で声を潜めて話をしていた。
 さっき聞こえてきた会話はこの人たちのものか。
 私は1つため息をつき、それから意を決してまた歩き始めた。

「こんにちは」

 隣を通り過ぎるとき、そう軽く挨拶した。彼女たちが確かに息を呑む音が聞こえたけれど、気にしないふり。
 私を見た二人の女中は明らかに「しまった」と言う顔で慌てて頭を下げる。そうして私が通り過ぎると、そそくさと小走りで逃げてしまった。

 “けれどきっと、あのお方のお力が――・・・で、・・・だったからよ”

 大方自分の悪口でも言ってたんだろうなぁ、と最後に聞こえてきた言葉を思い浮かべる。きっと城内のあちこちで、今みたいな話が囁かれているはずだ。
 元々このお城にいる人たちとはそこまで関わりのなかった私。今まで身の回りの世話は風紫がしてくれていたし、毎日力をつけるために特訓に明け暮れていたし、たまに焔に会いに来る輝舟と話すぐらいで。城内の人と関わることなんてほとんどない。
 だけど彼らの噂話に心を痛めないかと言えば、そうでもなくて。
 それを耳にするたびに、自分の力不足が招いた事態の深刻さを痛感させられる。
 ・・・でも、だからってここでその失敗を嘆いている暇もない。

「出発は明日・・・」

 預言者の地へと向かう準備は着々と進められていた。明日ついに、私は自分をここへ呼んだ張本人と対面する。
 聞きたいことが山ほどあり過ぎて、頭の中にあるものを整理しないといけない。だけどその前に、無性に焔に会いたくなった。彼が守を外された日以来会っていないし、それに何より「行って来ます」ぐらい言っておきたい。
 そう思って、私は魏惟さんの部屋に足を進めた。

 ――再び世界が軋むその音が、その時はまだ私の耳に届いていたはずもない。  


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