第9話 奥底から蘇るモノ 1
暗い、気がした。
先が見えそうなのに、それはぼんやりとしていてどんなに目を凝らしても姿を現してくれない。何だか視野が極端に狭くなったみたいで、一定のものしか見えない。
しかもその一定のものの中に、誰かが含まれてない。
――疾風だ。
分かってる。ちゃんと「疾風」っていう人物は知ってる。だけどそれは、記憶喪失後の事で。
見えないのは、私が記憶を失う前のアイツ。
何か忘れちゃいけない、大切な事があったはずなのに。私だけはアイツの事を忘れちゃいけない、そんな気がするのに。
思い出せない。何故、って聞かれても答えられない。
・・・あったかいっていう、記憶はあるんだよ。
手が届いていた気も、手に入れていた気もする遠い記憶。
それから、
何かが切れてしまったような記憶。
それを思い出そうとすると嫌な感じが全身に広がってきて泣きそうになった。でもそうなる前に、目の前は一気に真っ黒に塗りつぶされた。
――「那智?」
声が聞こえて、ハッとした。
勢い良く顔を上げると「ゴッ」という音ともに何かに当たった。
「あ、あれ?疾風?」
ビックリして辺りを見渡すと目に入ってきたのは顎を抑えてうずくまる疾風の姿。
・・・もしかして今ぶち当たったのは顎ですか?でも私全然頭痛くな――・・・あぁ、そうか。石頭なのか自分。
・・・いや、そうじゃなくて。
「あー・・・えっと、ごめんね?」
一応謝ってみる。すっごい痛そうだし。
そうすると疾風は凄く微妙な顔で、
「お前は痛くないのか?」
「全然」
キッパリ答えると、向こうは溜息。でも再度私のほうを見て、急にスッと頬に手を伸ばしてきて――
「・・・で、何で泣いてんの?」
「へ?」
いきなりな行動にいきなりな発言。何が何だか分からない私はそう声を上げる事しか出来ず。
「泣いてるって、私が?」
思わず疾風にそう聞き返してしまった。
「さっきお前寝てたけど悪い夢かなんか見てたのか?」
疾風の何処か心配そうなその一言で、私は自分がリビングのテーブルに突っ伏すようにして眠っていたんだと気づく。
「・・・あぁ、うん。別に?」
そうして、さっき見た暗い夢を隠すようにそう答える。
だけど疾風は鋭くて、ジーっと私の顔を覗き込んで、
「じゃぁ何で泣いてんだよ?」
「・・・知らない。夢なんて見ても覚えてないもん」
目を合わせてると全部見透かされてしまいそうだったから思わずフイっと疾風から目を逸らして答える。さすがに疾風も、これ以上何を聞いても無駄だと思ったようで。
「ふーん・・・。あぁ、俺マロンに餌やってこよう」
普段はやらないそんな事を口実にして部屋から出ようとする。
だけどそれを見ると、不意に私は不安になって。
「・・・疾風っ!」
思わずそう呼び止めてしまった。
不思議そうに振り返った奴に何ていうかなんて、全然考えては無かったんだけど、
「ごめん・・・ね」
思わず口から漏れたのはそんな言葉。自分でも何を謝っているのか良く分からないのに相手にそれが伝わるはずも無くて、急にそんな事を言われた疾風はポカンとした顔。
「あ、いや・・・何でもない!今の何でもないから!」
慌てて私はそう弁解したけれど、意味不明な言動の後はあんまり効果が無い。
しかもその場で足をとめていた疾風は何を思ったのかくるりとこちらに向き直って戻ってくる。
それからまた手が伸びてきて、次は何をされるんだろうと瞬時に体を硬くすると。
「焦るな」
・・・きゅぅ、と抱きしめられた。
「・・・何言って――」
本日2度目の突発的な疾風の行動に慌てて、頭が真っ白になりつつそう言ったけれど。
「・・・アレ?」
何故か、目からは勝手に涙が溢れて来る。しかもそれに気づいた直後に徐々に押し寄せてくる不安。まるでさっきの夢のように、何かを失ってしまうような恐怖が込み上げてきて思わず疾風にぎゅっと抱きついた。
・・・怖いよ、疾風。
全部思い出して安心できたと思ったのに、どうしてかアンタの記憶は靄がかかったまんまで。
分かってる。もし何かを失うとしたら、それはただ1つ。
――疾風だ。
「捨てないで」なんてそんな惨めで自分勝手なこと言えない。
だからせめて、疾風が目の前に居る今だけは。
そう思って、私は不安を流しだすように疾風に縋り付いて泣きじゃくった。